2014年 10月 04日
KOKON改装10年「川村さんの修業、高野の文芸春秋掲載、そして常世田哲と出逢う。」 |
とうとうこのシリーズの第6編?
原稿はかなり前に書いたのですが、
一応「ようやく書きました!」ということで、
高野の文芸春秋取材の話からです。
高野の実家の工房にて(屋根裏部屋)。
文芸春秋取材に立ち会う(店長写) 2007年2月
2006年の12月、私は店で当時小学生だった娘に大掃除の窓ふきを教えていました。
「文芸春秋から高野に直接取材したいって言う電話だけど!」
奥さんから声がかかったが、私は窓ふきを教えるのにそれどころではなかった。
「高野は実家の屋根裏で仕事しているから直接言ったら迷惑かかるよ。お断りして。」
と返事して私はまた窓ふきを始めました。
ところが再び電話があり、私は趣旨をFAXして頂くように奥さんに言いました。
FAXは福編集長のMさんからで、
「日本の靴職人」の巻頭グラビアを企画していて執筆される中嶋渉さんが
「これからの日本の靴職人」
として5人を選んでその中に高野が入っていたと言う事でした。
中嶋さんは2004年2月に雑誌「マンスリー・エム」の特集を担当され、
その時私が送った高野のコステル・チリカーフの
パンチドキャップトゥを見られていました。
そして2007年2月に私も立ち会って高野の屋根裏部屋に
中嶋さんとカメラマンさんの4人が集まりました。(狭かった〜!)
この企画はその年の文芸春秋6月号に掲載されました。
またこの年の初め、高野の靴2足をセントラルの411を購入されていたお客様の川村さんから
「店長、、、ご相談が、、、」
と声がかかり、店の近くの小料理「青木」に連れて行かれました。
「青木」は私の行きつけでもありました。
「靴屋が好きで、将来、定年後を考えて勉強したいのですが。」
「はあ、、、、。」
生まれて初めての申し出に私はどう答えて良いか考えました。
そして翌週の日曜日から毎週勉強(修業)に来られるようになりました。
ある日、川村さんが店にいる時に弥助のおやっさんが来店され、
「あんた、なんてことを。。。」
と感動されていたのを私はずっと意味が分からずにいました。
そして5月頃、会社転勤辞令を断った川村さんは
「これからは毎日来れます。」
と私に言いました。
私は川村さんの決断を許された奥様が素晴らしい人だと思いました。
セントラルのKO-1は順調でしたが、川村さんの地元は愛知県。
「太平洋側ならもっとバリエーションがあったほうが。。。」
と私は自分の尻を起こしてムチを入れました。
「しかしハンドメイドが。。。」
高野は相変わらずマイペースでKOKONの靴を作ってくれましたが、
もう一軒分のオーダーをこなすのはムリだろうと思いました。
そしてその年の12月の東京ミーティング、
当時よく利用していた吉祥寺「サムタイム」に
高野の紹介で常世田哲が自作の靴を持って現れました。
原稿はかなり前に書いたのですが、
一応「ようやく書きました!」ということで、
高野の文芸春秋取材の話からです。
文芸春秋取材に立ち会う(店長写) 2007年2月
2006年の12月、私は店で当時小学生だった娘に大掃除の窓ふきを教えていました。
「文芸春秋から高野に直接取材したいって言う電話だけど!」
奥さんから声がかかったが、私は窓ふきを教えるのにそれどころではなかった。
「高野は実家の屋根裏で仕事しているから直接言ったら迷惑かかるよ。お断りして。」
と返事して私はまた窓ふきを始めました。
ところが再び電話があり、私は趣旨をFAXして頂くように奥さんに言いました。
FAXは福編集長のMさんからで、
「日本の靴職人」の巻頭グラビアを企画していて執筆される中嶋渉さんが
「これからの日本の靴職人」
として5人を選んでその中に高野が入っていたと言う事でした。
中嶋さんは2004年2月に雑誌「マンスリー・エム」の特集を担当され、
その時私が送った高野のコステル・チリカーフの
パンチドキャップトゥを見られていました。
そして2007年2月に私も立ち会って高野の屋根裏部屋に
中嶋さんとカメラマンさんの4人が集まりました。(狭かった〜!)
この企画はその年の文芸春秋6月号に掲載されました。
またこの年の初め、高野の靴2足をセントラルの411を購入されていたお客様の川村さんから
「店長、、、ご相談が、、、」
と声がかかり、店の近くの小料理「青木」に連れて行かれました。
「青木」は私の行きつけでもありました。
「靴屋が好きで、将来、定年後を考えて勉強したいのですが。」
「はあ、、、、。」
生まれて初めての申し出に私はどう答えて良いか考えました。
そして翌週の日曜日から毎週勉強(修業)に来られるようになりました。
ある日、川村さんが店にいる時に弥助のおやっさんが来店され、
「あんた、なんてことを。。。」
と感動されていたのを私はずっと意味が分からずにいました。
そして5月頃、会社転勤辞令を断った川村さんは
「これからは毎日来れます。」
と私に言いました。
私は川村さんの決断を許された奥様が素晴らしい人だと思いました。
セントラルのKO-1は順調でしたが、川村さんの地元は愛知県。
「太平洋側ならもっとバリエーションがあったほうが。。。」
と私は自分の尻を起こしてムチを入れました。
「しかしハンドメイドが。。。」
高野は相変わらずマイペースでKOKONの靴を作ってくれましたが、
もう一軒分のオーダーをこなすのはムリだろうと思いました。
そしてその年の12月の東京ミーティング、
当時よく利用していた吉祥寺「サムタイム」に
高野の紹介で常世田哲が自作の靴を持って現れました。
by kokon-y
| 2014-10-04 14:58
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